被爆前の広島の日常 広島はかつて「軍都」だった

概要

広島の爆心地から南東方向に2.7キロメートルのところに、大きな赤レンガの建物が4棟並んでいます。旧広島陸軍被服支廠といい、太平洋戦時中に軍服や軍靴など陸軍兵士が身につけるものをつくる軍需工場だった建物です。原爆の傷を残す被爆建物として知られていますが、広島がかつて大きな軍都だったことを示す戦争遺跡でもあります。その中にあった幼稚園に通い、学徒動員としても通った経験がある切明千枝子さんに、戦時中の学校生活や学徒動員、軍都広島の人々の暮らしなどについて教えてもらいます。

切明千枝子さん

1929年生まれ。旧姓煙井(たばい)。高等女学校4年(現在の高校1年)だった15歳の時、爆心地から1.9kmの路上で被爆。広島女子専門学校(現・県立広島大)卒業後の49年に広島県庁に就職し、85歳で被爆体験の証言を始める。広島平和記念資料館などで修学旅行生などに講話をする「被爆体験証言者」としても活動している。

戦争の申し子


幼いころの切明千枝子さん(左)

「私が生まれたのは1929年11月、世界大恐慌が始まったころです。日中戦争が始まったのは小学2年生の七夕の日で、終戦は15歳ですからね。考えてみれば、戦争の時代をどっぷり生きてきた「戦争の申し子」のようなものです。」

1931年9月、満洲の奉天近郊で大日本帝国の関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した「柳条湖事件」から、1945年の敗戦に至るまでの足掛け15年間は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと続く流れを一連のものとしてとらえて「十五年戦争」とも呼ばれる。

広島陸軍被服支廠


後方にある建物が、広島陸軍被服支廠の建物の一つ。1935年に撮影された、創立記念日の仮装行列の記念写真

「広島市皆実町で生まれ育った私の実家は、今も残っておりますが、その近所に、広島陸軍被服支廠がありました。家の目の前の通りは、被服廠通りと呼ばれており、毎朝出勤する人たちの足音がザックザックと響いていました。」

1894年に始まった日清戦争の指揮のため、広島には大本営が置かれた。帝国議会も広島に移り、首都同等の位置付けに。大陸派兵の拠点として宇品港が整備され、軍服などを扱う被服支廠のほか、兵器を扱う兵器補給廠、食料を扱う糧秣支廠も置かれ、総称して陸軍三廠と呼ばれた。

母親

広島陸軍被服支廠内の緑地にて。左端が切明千枝子さんの母、煙井美津子さん

「私がまだ幼い頃、母は被服支廠の補給部で経理係として働き始めました。山中高等女学校を出て郵便局に勤めた経験を買われて廠長夫人から直々に声がかかったそうです。当時、わたしにとっての祖母である姑と同居していたこともあり「一家に2人も主婦がおったら揉めるから」と言っていました。」

被服支廠は、支部の位置付けで、被服本廠は東京に、被服支廠は大阪と広島に置かれた。広島商業会議所編「企業地としての広島」「広島商工要覧」によると、職工は、1924年当時男262人女390人、1929年当時男228人女277人で女性のほうが多かった。

幼稚園と保育園

卒園間近のころの集合写真。最後列左から6人目が切明千枝子さん(洋服部分に◎の鉛筆跡がある)

「被服支廠の中にあった保育園と幼稚園に通いました。8歳下の妹がやっぱり預けられて、その頃の集合写真を見るとどっと子どもたちが増えている。子供が増えるってことは、仕事が忙しくなって働く女性が増えたんですね。若い男の人が戦争に行くと、女性がどんどん働きに出て力仕事をさせられる、そんな時代でした。」

被服支廠の敷地内にあった保育園・幼稚園には、ジャングルジムや滑り台、ブランコなどがあり、この当時の一般的な幼稚園に比べて設備が充実していた。敷地内には、このほか、大浴場や医務室、食堂、従業員寮、散髪店などがあり、福利厚生が充実していた。

ウサギと服

母方の祖父の三回忌。前列中央が切明千枝子さん。寺町(現在の広島市中区)の徳応寺にて(撮影年月不詳)

「私が着ているオーバー、首のところにウサギの毛がついているんですよ。ヒツジのように刈ってからつけると思っていたんですけど、殺して皮を剥いで軍服の襟につけたりするって後から聞いて、私が着ていたのも皮を剥がれたウサギだったと思うとかわいそうで。ここに写っているおじやおばは原爆で死にました。」

被服支廠の構内ではたくさんのウサギが飼われており、幼稚園児や保育園児は、大根やニンジンの葉などの餌をやるのが楽しみだった。複数の種類のウサギが飼われており、軍服の外套の裏に付ける毛皮の保温力を比較検討していたという。

創立記念日の仮装行列


被服支廠の創立記念日での記念写真(1935年撮影)

「日中戦争が始まる前の写真です。そのころ創立記念日には、工員さんや職員さんが仮装行列をしたり、こんな楽隊を作ってドンガラガッチャンでね。中段でヘルメットをかぶってる似たような3人、爆弾三勇士とか肉弾三勇士というのが特攻隊の走りですけど、この中の一人が母だそうです。」

上海事変下の1932年2月、3名の一等兵が鉄条網破壊のため爆薬入りの破壊筒を抱いて突入して爆死した。陸軍は「覚悟の自爆」として3名を軍神として顕彰する方針をとり、新聞も軍事美談としてキャンペーンを展開した。(参考資料:平凡社「世界大百科事典第2版」)

別の年の仮装行列


別の年の仮装行列の記念写真。軽便鉄道(トロッコ)のレールが見える。

「この写真にも肉弾三勇士がいますね。とにかく仮装行列が大好きでね、ようやりよったですよ。運動会やら、倉庫の前の広場にスクリーンを置いて映写会やら、しよりました。この建物は、やっぱり倉庫なんですけど、もう今は残っていませんね。今残っているのは、10番庫から13番庫、赤レンガの4棟だけです。」

広島陸軍被服支廠の敷地には、現存する10番庫(現4号棟)から13番庫(現1号棟)のほかにも倉庫9棟のほか、本部、裁断、縫製など業務ごとにいくつもの棟があった。構内にはトロッコも走っており、敷地の東端に南北に走る宇品線のプラットホームもあった。


橋本秀夫氏作図「広島陸軍被服支廠配置図」

宮島への職場旅行

1937年秋、被服支廠の職場旅行で宮島へいった母美津子さん(左から2人目)。千枝子さんの8歳年下の妹を抱いている。右後方に厳島神社大鳥居が見える

「母が補給部給料係の上司たちと宮島に行った時の写真です。この年の七夕の日、日中戦争が始まりました。中国大陸へ向かう軍用船が出る宇品港が近かったので、毎日のように兵士の見送りに行き、日の丸を振って万歳万歳、とやっていました。戦果が上がるたびに提灯行列がありました。景気のいい時代だったんですね。」

約800年前、年貢の運搬用の船運が太田川河口付近に集まったことを始まりとする広島港(宇品港)は、1894年、日清・日露戦争を機に軍用港として整備されるようになり、朝鮮半島や中国大陸に向かう兵士や物資の輸送の最前線となった。

皆実小学校 思い出の先生

皆実小学校3年のころ。前から3列目左端が切明千枝子さん(1938年撮影)

「中央の女の先生は怖い先生でしたが、その隣の男性は『教生の先生』って言って優しくてみんな大好きでした。師範学校の学生で、いわゆる教育実習みたいな形で来られていて。休憩時間にはみんなでまとわりついていました。のちの同窓会で、中国戦線で亡くなられたという噂を聞きました。」

公立の小学校なのに女子児童しか写っていないのは、当時は3年生になったら男子組と女子組に分かれることになっていたからだという。「男女七歳にして席を同じうせず」という中国の古い教えがあり、男女の別をはっきりさせることがよしとされていた。

皆実神社での記念写真

被服支廠補給部本部の職員一同(1944年8月撮影)。中段左から5人目が切明千枝子さんの母

「被服支廠の中に入ったら、門のところに小さなお宮があるんですよ。ほこらがあって、伊勢の皇大神宮の御霊を招聘して皆実神社って名前がついていましたね。その周りが広い原っぱで。なんの記念写真かはわからないんです。裏に検閲の印がありますよ。」

1941年公布・施行の言論、出版、集会、結社等臨時取締法で、言論、出版、集会、結社等の自由は制限されており、写真も検閲された。結社や集会も許可制となった。こうした取扱は戦後になくなったが、戦後連合国軍司令部による言論統制が始まった。

キャリアウーマン

1943年12月1日、補給部給料係から出納係への異動に際しての記念撮影。前列中央が35歳の母美津子さん

「女の人はモンペを履く時代、母たちはいつもスカートを履いていました。今思えばキャリアウーマンの走りですね。たくさんの部下を従えていました。戦後は引揚者の援護に携わっていました。『女しか産まない非国民だと言われたけど、戦争に行かずに済んだから女の子でよかった』と言っていました。」

中国や旧ソ連などからの引き揚げ者の援護業務に携わる地方引揚援護局は、1945年11月24日の厚生省(後の厚生労働省)告示によって、宇品、佐世保、博多など計11カ所に設置された。邦人引き揚げは1946年末までに500万人を越え、集団引き揚げは1958年まで続いた。

原爆投下と広島陸軍被服支廠

原爆投下後の広島市中心部。写真右端、円線にかかった白っぽい一画が、広島陸軍被服支廠。(米軍撮影/米国国立公文書館所蔵/広島平和記念資料館提供)

「学徒動員で行った被服支廠では、穴が開いたり血のりがついたりした軍服を洗濯しながら「これで戦争に勝てるんだろうか」と思っていました​​。原爆投下時は別の場所にいましたが、母は、自宅でけがをした祖母を被服支廠の倉庫に担ぎ込みました。」

原爆により、爆心地から2キロ以内の建物はほぼ破壊されたが、2.7キロ離れた被服支廠はかろうじて残ったため、多くの負傷者が逃げ込んだ。当時の倉庫内の惨状は、峠三吉の「倉庫の記録」でも記されている。

現在の旧広島陸軍被服支廠。赤レンガの4棟だけが残っている(2023年4月2日撮影)

メッセージ

「世の中を背負う若い人たちが戦争で死ぬということは二度とあってはなりません。そのために何をしたらいいかをみんなで考えて、力を合わせて平和を守っていかなければなりません。黙ってじっと座っていても、平和は向こうからやってきてくれません。一生懸命たぐり寄せ、つかんで、力を尽くして守らないと、うたかたのごとくに消えてしまうんです。」

スライド教材 「被爆前の広島の日常 広島はかつて「軍都」だった」
教材作成:林田 光弘(RECNA 特任研究員) / 宮崎 園子(フリーライター)
写真提供:切明千枝子 スライドデザイン:大久保舞花

参考文献・WEBサイト

文献

  • 安井三吉(2016)「『十五年戦争』と『アジア太平洋戦争』の呼称とその展開について」『現代中国研究』第37号,pp.81-99.
  • 旧被服支廠の保全を願う懇談会編(2020)「旧被服支廠の保全を願う懇談会」『赤レンガ倉庫は語り継ぐー旧広島陸軍被服支廠被爆証言集ー』旧被服支廠の保全を願
    う懇談会
  • 阿部安成、加藤聖文(2004-5)「「引揚げ」という歴史の問い方(上)」『彦根論叢』第348号、pp.129-154.
  • 峠三吉(2016)『原爆詩集』岩波書店
  • 切明千枝子(2019)『ヒロシマを生き抜いて』ノーモア・ヒバクシャ継承センター広島
  • 切明千枝子(2021)『ヒロシマを生き抜いて Part 2』ノーモア・ヒバクシャ継承センター広島
  • 広島市役所編(1971)『広島原爆戦災誌』広島市

WEBサイト

  • 「建物の被害」広島市.https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/48/9401.html,(参照 2023-03-20)
  • 「広島港の歴史」広島県.https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/221/portofhiroshimahistory.html,(参照 2023-03-20)
  • 「旧広島陸軍被服支廠」広島県.https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/hihukushisyo/,(参照 2023-03-20)
  • 「旧広島陸軍被服支廠倉庫特設サイト」アーキウオーク広島.https://www.oa-hiroshima.org/hifuku/hifuku.html,(参照 2023-03-20)
  • 「日清戦争と広島」広島平和記念https://hpmmuseum.jp/modules/exhibition/index.php?action=DocumentView&document_id=84&lang=jpn,(参照 2023-03-20)
  • 広島商業会議所 編『企業地としての広島』大正15年版,広島商業会議所,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/963933 (参照 2023-03-20)
  • 『広島商工要覧』昭和4年,広島商工会議所,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1100668 (参照 2023-03-20)

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