原爆資料館の下に眠る 僕の家、そして思い出

概要

原爆で亡くなった人々の遺品や、被爆の痕跡を残す資料など約2万点を収蔵する広島平和記念資料館(原爆資料館)。高床式のその建物が立つ場所と周辺には、米軍による原爆投下前までは、たくさんの民家や商店が立ち並んでいました。今中圭介さんの自宅も、まさに資料館の東側付近にありました。姉や父が原爆の犠牲になった今中さんに、かつてそこに広がっていた街並みや、今は亡き家族との思い出について語ってもらいました。

今中 圭介 さん

元広島市職員。1936年、広島市材木町(現在の広島市中区中島町)生まれ。父母、祖父母、2人の姉、そして弟がいた。1945年春、八木村(現在の広島市安佐南区)に一家で疎開。広島市中心部に出勤した長姉・博子さん(当時17歳)が原爆の犠牲に。博子さんを捜して直後の市内に入った父圭三さんも2ヶ月後49歳の若さで亡くなった。

海外と取引をしていた父


撮影時期不詳 父・今中圭三さん(後方左)と、今中商店で働いていた若者たち。 事務所には5人ぐらいの従業員がいたと、今中圭介さんは記憶している。

僕の父、今中圭三は、創業者の祖父・梅吉とともに貿易会社を経営していました。取引先は主にアメリカ西海岸とハワイ。そこにいる日系人に広島県産の物を送ったり、向こうから物を輸入したり、いうようなことをやっていました。親戚がシアトルの支店長をしていましたよ。

広島は、多くの海外移住者が輩出した全国一の移民県だった。JICA横浜海外移住資料館によると、その数は戦前戦後10万9893人で、2位は沖縄県だった。広島から海外への本格的な移民は、1885年のハワイ王国への第1回官約移民に始まり、北米や中南米などへと広がった。

材木町の今中家


撮影時期不詳 今中家の住居を兼ねた、今中商店の正面。1935年に建て替えられた

現在の資料館本館の東側あたりにあった、僕が生まれた家です。会社の事務所でもあった。ハワイから来る人が、広島駅で『材木町の今中に行ってくれ』って言ったら『ああ洋風の建物ですな』って。それぐらい広島では知られとった。商売を大きくやっとっても、家を洋風に建物を建てるいうのは珍しかった。上が事務室、1階は応接室でした。

毛利元就の孫・輝元によって1589(天正17)年に太田川河口のデルタに広島城が築城され、城下町広島は広島藩の中心として発展しました。そこから1キロあまり南東に広がる中島地区、その一画の材木町界隈は、古い木造建築の店舗や住宅が密集するエリアだった。

今中家

1935年ごろ撮影 事務所兼自宅の中でくつろぐ今中圭介さんの家族。 右から祖母のキクさん、長姉の博子さん、次姉の徳子さん。

東西に細長い敷地に建物が二つ。この時代は侍屋敷ですから、表に玄関があって、奥の方に母屋があって、真ん中に中庭があって池もありました。1階も2階も渡り廊下でつないで。奥にある地下室の倉庫までトロッコのレールが敷いてましたよ。

材木町を含む旧中島地区は平和記念公園として整備された。2015年、平和記念資料館の耐震工事中、地面から食器や子どものおもちゃなどの生活用品が発掘され、今中圭介さんの名前が裏に掘られた硯もあった。かつてのまちの一端を残そうと、広島市は公園内に「被爆遺構展示館」を整備した。

初節句

1936年撮影 初節句のときの今中圭介さん。生後3カ月ごろ。

女の子2人の後に男の子が生まれて、跡取り息子が生まれたっていう期待もあったんだろう。ずいぶんと派手だよね。長女の博子のときにかなり派手に雛人形をやったみたいで、あんまりを差つけられない、いうのもあったんだと思うよ。

今中さんの背後に置いてある置き物は、「楠公さん」と言われた楠正成の像。父・圭三さんがかつて勤務した会社からのお祝いの品で、疎開をしていたため残り、今でも大切に保存しているという。

無得幼稚園

撮影時期不詳 無得幼稚園の集合写真。上から2列目左から8人目が今中圭介さん。 一番上の列左から7人目が斎藤くん。下から2列目一番左が長原くん。

無得幼稚園にはずいぶん遠くからも子どもたちが通っていましたよ。呉服屋の息子の斎藤くんは悪ガキで、先生に怒られて椅子にくくりつけられたのにそのまんま本通を走って帰って話題になった。長原くんは近所の肉屋さんの息子でしたが、みんなが疎開したのに疎開せず、一家みんな亡くなったと聞きました。

無得幼稚園は、資料館本館の西側付近にかつてあった誓願寺というお寺の境内にあった幼稚園。中村先生(写真一番上)が厳しかったというエピソードは、スライド教材「被爆前の広島の日常 原爆ドームが産業奨励館だったころ」に登場する濵井徳三さんも証言している。

宮島

1939年ごろ撮影 後方の大人は左から、父・圭三さん、母の兄の妻、母・セツノさん。
前方の子どもは、長姉・博子さん(左)、次姉・徳子さん(右)、圭介さん(手前))

鹿がおるから、きっと宮島の写真でしょうね。他にも宮島の写真がようけあるでしょう。アメリカに住んでいる親戚やらが広島にきた時には、珍しいからと宮島に連れて行くわけです。他に見るところないですからね(笑)

母セツノさんの兄・田川静馬さんは、ハワイに移住し、現地でアメリカン・トレーディング商会という会社を経営していた。今中商店との取引もあり、その関係で、圭三さんがハワイに行くこともあったという。

ハワイ来訪時、現地の日系新聞で「廣島市の輸出商」として報道された今中圭三さん中島国民学校

中島国民学校

撮影時期不詳中島国民学校の三好先生(中程の大人)。
現在の中島小学校一帯にあった庭園「与楽園」にて

僕は1945(昭和20)年の春に八木に疎開するまで、地元にある中島国民学校(現在の広島市立中島小学校)初等科に通っていました。この写真に写っている三好先生は、キューピーさんって呼ばれていました。なんか顔の彫りが深くて、雰囲気も外国っぽいでしょう。

太平洋戦争後期、日本各地で大規模な空襲が続いたことで疎開が始まった。1944(昭和19)年からは、都市部の国民学校初等科の児童の集団疎開が始まった。集団疎開した学童数は約46万人と推定されている。

アメリカとの取引

写真説明に「躍進日本見学団 1939年6月15日」とある。
この年の9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が始まる

親父は仕事人間で、そして大酒飲みでした。ハワイの伯父貴のところ行って、探してもベッドにおらん。ベッドの下に入っとったって、笑い話になったんですけどね。真珠湾攻撃が1941(昭和16)年12月に起きるわけだけど、その年の春にはアメリカとの取引はやめたような気がするね。

商売が成り立たなくなったことを受け、圭三さんは、兄が経営していた広瀬町(現在の広島市中区)の材木店で働くことになった。軍需工場だったため、経営は安定していたとみられる。

立石商店

1940年撮影 父・今中圭三さんが修行していた繊維問屋、立石商店。

親父の親戚から聞いたんですが、親父はもともと立石商店っていう大きな繊維問屋で働いていたそうなんですよ。立石商店は猿楽町、今の原爆ドームの近くにあったらしいです。

「皇紀二千六百年元旦」とあるので、撮影日は1940(昭和15)年1月1日と見られる。最後列右側、着物の女性の左上で1人頭が抜けているのが圭三さん。サブ写真は浮き輪に「NEKKA MARU」の文字があり、大阪商船「熱河丸」の船上で撮影されたものとみられる。

立石商店の旗を持った今中圭三さん。

帰らなかった姉

撮影時期不詳 広島女子商業学校(現在の広島翔洋高校)時代の今中博子さん。

卒業後、住友銀行に就職した。1945年8月6日、疎開先の八木から朝早く出勤し、そのまま帰らない。いずれは商売している家に嫁ぐだろう、と父は姉を女子商業に行かせた。家におっても軍需工場に出されるだけだしね。当時外資を扱う銀行はあまりなくて、うちは住友銀行とは付き合いがあった。それで、卒業後はそこへ就職した。それが結果的に悪かったよね。

住友銀行広島支店(現在の三井住友銀行広島支店)は、爆心地の東260メートルにあった。父圭三さんと母セツノさんは博子さんを捜して、直後に市内中心部に入った。骨は見つからず、銀行で骨壷を渡されたが、骨は入っていなかったという。

狸御殿

撮影時期不詳 「花園歌劇団」のメンバーとみられる女性たちと長姉・博子さん(後列一番左)。

年が離れていたため一緒に遊んだ記憶はあまりないが、とても社交的で奔放な性格だったという。ある日博子に近所の世界館って映画館に連れて行かれて『狸御殿』を観ました。タヌキが出るかと思いきや女の子が騒いでる内容で僕はおもしろくない。教護連盟の人に捕まると『弟がタヌキを見たがったので』と説明していました。後で一銭洋食をおごってくれて怒りが収まりました。

『狸御殿』は1939(昭和14)年に第1作が封切られた映画。教護連盟とは非行少年を監視する団体。今中さんによると、当時学校には教護連盟の担当者がついていて、下校後の生徒たちを監視し、不良行為があると親が呼び出される仕組みだったという。

兄姉弟の死

撮影時期不詳 次姉・徳子さんの葬式の際の集合写真(中央の学生服の少年が今中圭介さん)。

一家が、1年過ごした疎開先の八木から移り住んだ可部(現在の広島市安佐北区)にて一番上の姉の博子は原爆の日に帰ってこなかった。一番下の弟の厚三は終戦の少し前、蚊に刺されて日本脳炎になって亡くなっている。だから、下の徳子が終戦の4年後に18歳で亡くなってしまったことで、4人姉弟で僕はたった一人になってしまったんです。

今中家は全員、疎開していており、徳子さんも爆心地近くにはいなかった。だが、若くして甲状腺異常によって亡くなった徳子さんも、原爆投下後に爆心地付近に入ったのではないか、と今中圭介さんは疑っているという。

撮影時期不詳 幼少期の徳子さん 後方は今中圭介さん

材木町の住民たち

撮影時期不詳 原爆によって消えてしまったまちに集った、材木町の住民たち。
手書きの説明が引っ張ってある、大きな白い尖った襟の男性は、今中圭介さんの祖父・今中梅吉さん

一緒に貿易の仕事をしていた父がいなくなり、戦後じいさんは商売を諦めた。だけど、神戸のいろんな会社からもう一回やらないかというような手紙ももらっていたし、訪ねてきた人もいる。僕がやるよって言ってたらじいさんはもう一度商売を立ち上げていたかもしれないけど、僕にはそういう気がなかったんよね。

今中さんは、戦後通った小学校で5年生の時に出会った梶山先生という熱心な先生が好きになり、教師になろうと決めた。教員免許を取得し、小学校で4年間だけ教壇に立ったが、後に社会教育分野の方に転身した。

アメリカと商売をしていた父

撮影時期不詳 「材木町救護班」の人たち。前列左から3人目が今中圭三さん

アメリカと商売していた親父は、対米開戦後はアメリカとの関係を周囲に極力伏せていた。だから地域活動に熱心に参加し、軍需工場でも働いた。ただ、周囲は皆アメリカ憎しだったのに、そういう顔は見せなかった。辛かったでしょうね。

原爆放射線の健康被害は1945年10月時点では解明されておらず、アメリカが投下した核兵器によって自らも犠牲になったことを、圭三さん自身は知らないまま亡くなった。ただ、圭介さんはそれでよかったと思っている。

メッセージ

平和記念公園の今のこの姿を見たときに、ここで多くの人たちが丸焼けになって死んでしまったなんて、誰も思わんかもしれない。明日も明後日もその先もある人たちが、なぜそんなにもたくさん、一発の原爆で殺されなきゃならなかったんだ。戦争ほどひどいものはないよ。海外のニュースを見て心がいたむ。こんな馬鹿げたことはもう、やめましょうよ。

スライド教材 「被爆前の長崎の日常 女子生徒の暮らし」
教材作成:林田 光弘( R E C N A 特任研究員) / 宮崎園子(フリーライター)
写真提供:今中圭介
スライドデザイン:大久保舞花

参考文献・WEBサイト

文献

  • ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会「証言 そこに子どもたちの遊んだ町があった
  • 中島本町・材木町・中島新町・大手町」
  • 柳下登志子「広島興行場施設別略年表-戦前編」(被爆70年史編修研究会事務局)
  • 棚野勝文「日本型学校教育における生徒指導の所在―生徒指導に対する認識・解釈の歴史的変遷より」(岐阜大学)
  • 庭田杏珠・渡邉英徳『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』(光文社新書)

WEB

  • 中国新聞社ヒロシマ平和メディアセンター「平和記念公園(爆心地)街並み復元図」(中国新聞デジタル)https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?page_id=25623(2023年3月18日閲覧)
  • 『海外移住資料館だより 2017春』JICA横浜海外移住資料館,https://www.jica.go.jp/jomm/outline/ku57pq00000lx6dz-att/dayori45.pdf,(参照 2023-02-20)

スライド教材

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授業用補助資料

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