被爆前の長崎の日常 嘉代子さんとの思い出

概要

長崎市立城山小学校の「嘉代子桜」は、ここで学徒動員中に原爆の犠牲になった林嘉代子さん(当時15歳)をしのんで植えられ、平和を願うシンボルとして知られています。では、嘉代子さんはどんな人だったのでしょうか?嘉代子さんと同級生だった岩永さんの思い出や並んで撮ったクラス写真をもとに、嘉代子さんの人となり、戦時下の学校生活、そして生死を分けた「1945年8月9日」についてまとめました。

岩永 美代子さん

1930(昭和5)年生まれ。長崎市繁華街のアーケードや観光名所・眼鏡橋そばに自宅があり、旧制長崎県立長崎高等女学校4年だった15歳のとき、自宅近くで被爆した。同級生には学徒動員中に城山国民学校で原爆の犠牲になり、「嘉代子桜」の物語で知られる林嘉代子さんがいた。

嘉代子桜

みなさんは「嘉代子桜」を知っていますか?長崎市立城山国民学校(現在の城山小学校)で学徒動員中に原爆の犠牲になった、林嘉代子さんという女子生徒をしのんで、嘉代子さんのお母さんが戦後、校庭に植えた桜のことです。嘉代子さんは私の同級生で親友でした。

紙芝居「嘉代子桜」

嘉代子桜は当初50本が植えられ、現在は6本が残っている。現在の中学・高校生にあたる年ごろで命を奪われた嘉代子さんと桜の物語は、絵本や紙芝居、楽曲やドキュメンタリー作品、平和教育の教材に取り上げられ、広く知られるようになった。

同級生の嘉代子さん

1942年6月撮影 長崎県立高等女学校1年3組の集合写真

1942年、旧制の長崎県立長崎高等女学校1年のときのクラス写真です。左が嘉代子さん、右にいるが私です。私たちは同級生でした。背丈が同じくらいだったので、写真を撮るときも隣同士でした。

学校の集合写真なのに服装がバラバラで制服を着ていない生徒もいる。岩永さんによると、このころは戦時中の物資不足で「服は手に入るものを着なさい」という風だったという。

写真を拡大したもの。左が嘉代子さんで、右が岩永さん

絶対音感

1942年ごろ。後列左から3人目が岩永さん。

私が通っていたピアノ教室の音楽会の写真です。ピアノは子どものころから習っていて、この時は「バイエル100番」を弾きましたが、ベートーベンの「月光」も弾けたんですよ。でも嘉代子さんは私よりうんと上手でした。今なら『絶対音感』と言うのでしょうか、和音(コード)を聴くと、すぐにどの音かがわかりました。

岩永さんが当時弾いていたピアノは戦争が激しくなってきたころ、島原に疎開させ、戦後に岩永さん宅に戻して、今も大切に保存されている。

「おじさんたちが怖い」

1920年代なかばごろ撮影、 岩永さんの店の従業員たち

嘉代子さんと私は家が近かったので、お互いの家によく行き来していました。私の家はクギや針金、船体に貼る銅の板など金属資材の卸小売店を営んでいるのですが、当時は住み込みの男性従業員が何人もいたので、一人娘の嘉代子さんは遊びに来ると、「おじさんたちがこわい」とはにかんでいました。

岩永さんの家は当時も現在も長崎市繁華街のアーケードや観光名所の眼鏡橋の近くにある。店は岩永さんの祖父が1895年に創業した。戦時中は物資の売買が統制され、「クギ一本さえ自由に売れなかった」と、岩永さんは振り返る。

学校に行きたかった

1944年2月ごろ撮影 学徒動員が本格化する前の下校風景。
橘同窓会編(2000)『たちばなの歩み100年 長崎県立長崎高等女学校創立百年記念誌』より引用

私たちも3年生だった1944年10月から、魚雷をつくる三菱兵器茂里町工場で働かされました。部品にヤスリをかけたり、鉄の塊を測って削る部分に印を付けたり、言われるままに作業しました。「戦争に勝つため」と信じていましたが、やっぱり年相応に学校に行きたかったですよね。

女子校でも軍事的な基礎訓練を施すための軍事教練があり、その指導役として陸軍現役将校配属令などにより配属された「配属将校」がいた。さらに戦時体制が進むと、服装も代わりスカートからモンペになった。

日見トンネル工場

各所の位置関係 OpenStreetMapより作成

1945年の春、三菱兵器に動員されていた私たち生徒は二つに分けられ、一方は茂里町工場に残り、もう一方は日見トンネル内の工場に移ることになりました。どちらに行くか希望を聞かれた私は日見を選びました。日見には母の実家があり、名物のビワが食べられると思ったからです。

日見トンネル(旧)は長崎市郊外の国道34号にある、全長642メートルのトンネルだ。戦争末期、三菱兵器は軍の指令を受けて空襲を避けるため、茂里町工場と大橋工場の工作機械の半数を日見トンネルなどに、事務所を城山国民学校などに分散して疎開させた。

日見トンネルの写真。長崎県のホームページより引用。

城山小学校

城山国民学校の被爆前の写真 長崎原爆資料館提供

私が日見トンネルの工場に通っていたころ、嘉代子さんの動員先は城山国民学校に疎開していた給与課に移っていました。工場で働くには体が弱いと気遣われたようですが、機械の騒音がなく油臭くもない職場なので、周りから「いいなぁ」とうらやましがられました。

1945年8月9日朝、嘉代子さんは「今日は仕事に行きたくない」と漏らした。だが、母に諭されて渋々、家を出たという。この日は嘉代子さんの16歳の誕生日の2日前だった。

8月9日

1930ー40年代前半ごろ、岩永さんの家の前にかかる賑橋。当初の原爆投下目標だった。

私は普段から丈夫だったのですが、あの日、1945年8月9日に限って朝から体がだるく、仕事に行きたくありませんでした。父に相談すると、「医者に診断書をもらって休めばいい」と言われました。そこで父と一緒に自宅近くの医院に行き、待合室に座って体温を測っていた時に原爆が炸裂しました。

医院は爆心地から南東約3キロにあったが、間の山が熱線をさえぎった。続いて爆風に襲われたが、とっさに岩永さんは待合室前の防空壕に、父は診察室の診察台の下に隠れ、大けがを免れた。2人は家まで走って戻った。気がつくと、岩永さんは体温計を脇に挟んだまま走っていた。

爆風で曲がった鉄骨の柱は現在も店の倉庫に残っている

嘉代子さんの死

1946年撮影 岩永さんたち長崎高女4年5組の卒業写真 後ろから2番目の右端が岩永さん。
1年生のときに映っていた林嘉代子さんの姿はない

学校が再開したのは1945年の10月でした。嘉代子さんも原爆の犠牲になったと聞き、「えー!」と思わず声を上げました。その半面、余りにも多くの人が亡くなっていたので、感情が動かず、悲しみがマヒしているところもありました。

県立長崎高等女学校では英語の授業が復活し、代数や物理も加わった。皇国史観(天皇を国家統治の中心として、神話を「歴史的事実」とする歴史観)を教えていた歴史の先生が「もう教えられない」と言ったのを聞き、岩永さんはショックを受けた。

城山国民学校

原爆で崩壊した城山国民学校の校舎 長崎原爆資料館

提供被爆後まもない城山国民学校です。当時校庭には多くの遺体が無残に転がっていたそうです。嘉代子さんのお母さんは、嘉代子さんと同じようにきゃしゃな方でしたが、どんな思いでここを捜し歩いたのでしょうか。この写真を初めて見た時、私は胸が塞がれました。

城山国民学校は爆心地の西約0・5キロにあり、嘉代子さんが働いていた校舎3階部分は原爆の熱線と爆風の直撃を受けた。嘉代子さんの両親は原爆投下から22日目の1945年8月30日、崩れた校舎の中をはい上がり、ようやく嘉代子さんの遺体を捜し出したという。

嘉代子桜

現在の嘉代子

桜嘉代子さんは花が好きでした。嘉代子さんのお母さんは、嘉代子さんや同じように原爆の犠牲になった女子生徒たちを偲び、1949年にソメイヨシノの苗木50本を城山小に贈りました。それが『嘉代子桜』です。2009年からは嘉代子桜の「2世」を育てて、各地に送る運動がスタートし、私も参加しました。

城山国民学校では、教職員や嘉代子さんら動員学徒ら約1500人が原爆の犠牲になった。「嘉代子桜2世」は、被爆者や城山小の卒業生たちが嘉代子桜を次の世代に残そうと、原木から接ぎ木して苗木を育てている。

仕送り

嘉代子さんのお母さんとの交流は戦後も続きました。公的な手当だと思うのですが、動員学徒の遺族にお金が送られていました。ある時、お母さんは『私は苦しくて、受け取りたくない』と漏らしました。私は「嘉代子さんは亡くなったのではなく、今も遠くで働き、仕送りをしてくる、と思えばいいじゃないですか」となぐさめました。

嘉代子さんの母はあの日、出勤を渋る嘉代子さんを促して送り出したことを後悔し、亡くなったのは自分のせいだと責めていた。岩永さんの言葉を聞いて、「ああ、そうですね」とほっとした表情を浮かべたという。

思い出を語る岩永さん

運命ってわからない

1942年6月撮影、林嘉代子さんと岩永さん

あの日、嘉代子さんが仕事を休んで城山国民学校に行かなければ、原爆の犠牲になることはなかったのでしょうか?さらに言えば、原爆の元々の目標は浦上ではなく長崎市中心部の賑橋付近。私の家の目の前です。もし狙いどおりだったら、たまたま仕事を休んだ私こそが爆心の真下にいたのかもしれません。

「運命ってわからない」と岩永さんは語る。しかし、原爆は天災ではなく、人間が人間の上に落としたものであり、運・不運で語れる問題ではないことを心に留めたい。

メッセージ

あの夏から80年近くが過ぎましたが、戦争も原爆も本当に昨日のことのようで、今も頭の中に見えるように浮かびます。私の親戚にも戦争や原爆で亡くなった人がいます。皆さんには、写真や嘉代子さんの話を通じて、こうした時代があって今がある、と知ってもらいたいです。

スライド教材 「被爆前の長崎の日常 女子生徒の暮らし」
教材作成:林田 光弘( R E C N A 特任研究員) / 佐々木 亮(フリーライター)
写真提供:岩永美代子 / 長崎原爆資料館
デザイン:大久保舞花
教材協力:ピースバトン・ナガサキ

参考文献・Webサイト

文献

  • 長崎原爆資料館 編(2 0 0 6)『長崎原爆戦災誌』第1巻・第2巻・第3巻,第長崎市
  • 市制百年長崎年表編さん委員会 編(19 8 9)『市制百年長崎年表』長崎市
  • 布袋厚(2 0 2 0)『復元!被爆直前の長崎 : 原爆で消えた19 4 5年8月8日の地図』長崎文献社
  • 橘同窓会 編(2000)『たちばなの歩み100年 長崎県立長崎高等女学校創立百年記念誌』橘同窓会

Web

  • 長崎県ホームページ,https://www.pref.nagasaki.jp/(参照 2024-03-20)
  • 長崎市立城山小学校ホームページ,https://www.nagasaki-city.ed.jp/shiroyama-e/(参照 2024-03-20)

スライド教材

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授業用補助資料

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