被爆前の広島の日常 原爆ドームが産業奨励館だったころ

概要

世界遺産・原爆ドームがあり、国内外から多くの観光客が訪れる広島市の平和記念公園。緑豊かな都心のオアシスは、米軍による原爆投下の前までは、商店や住宅が建ち並ぶ広島屈指の繁華街でした。爆心地近くのまちは一瞬にして廃墟と化したのです。一画にあった理髪店が自宅だった濵井特三さんに、かつてのまちや人々の暮らしの様子について聞き取りました。少年の記憶に残るかつての広島の様子がわかります。

濵井徳三さん

濵井徳三さん

1934年生まれ。11歳のとき、中島本町にあった自宅兼理髪店の東200メートルで原爆が炸裂。父と母、14歳の姉、12歳の兄の家族全員を失う。自身は、宮内村(現在の廿日市市)にあった叔母の実家に疎開中で無事だったが、原爆投下2日後に家族を捜して自宅跡地に行き、残留放射線で被爆した。

濵井家の家族構成


左から2人目が濵井徳三さん、その右後方は兄・玉三さん。右端から姉・弘子さん、母・イトヨさん。立っているのが父・二郎さん

「私は、1934年7月21日、父・二郎、母・イトヨの子として生まれました。父は、中島本町で理髪店「濵井理髪館」を営んでいました。店があった中島本町33番地の1、それが私の自宅です。3歳上の姉・弘子と2歳上の兄・玉三がおり、5人家族でした。住み込みの職人もいました。」

広島市中心部、元安川と本川が交わるデルタの部分、現在の平和記念公園一帯は、かつて中島地区と言われる広島屈指の繁華街だった。中島本町、天神町、材木町、木挽町、元柳町、中島新町などで構成され、広島原爆戦災誌によると、被爆直前、同地区には1330世帯、1300戸、4370人が暮らしていた(いずれも概数)。

理容師だった父


1939年10月、廣島理容学校の卒業記念写真に収まった父・濵井二郎さん(前から2列目の右端)

「父は理容学校講師もしており、店には濵井理容研究所の看板がかかっていました。縦縞スボンに蝶ネクタイで仕事をし、当時珍しかった電気バリカンを広める活動をしていました。夜11時ごろまで店をあけ、閉めてから飲み歩いていました。二日酔いで昼まで寝て、母や理容学校の生徒に起こされていました。」

2000年6月に中国新聞社が作成した「平和記念公園(爆心地)街並み復元図」を見ると、デルタ北端、現在の原爆慰霊碑の付近を南端とする中島本町には、カフェや映画館、旅館、ビリヤード場などのほか、第一生命などの企業の広島支店・支社なども軒を連ねていた。


濵井理髪館の店内で仕事中の濵井二郎さん。

職人さんたち

濵井理髪館の軒先で、濵井二郎さん(中央)と住み込みの職人たち(1936年撮影)

父の店で住み込みで働いていた職人さんたちは、学校から帰って父に見つからないようにこっそりランドセルを放り投げて外に遊びに出て行く私を笑って見送ってくれました。私たちきょうだいが遊ぶ時はきまって1人、監視役として私たちを見守ってくれました。

2016年公開の映画「この世界の片隅に」に濵井理髪館が登場する。制作にあたり、片渕須直監督は6年がかりで数千点の資料を集め、広島に通って濵井徳三さんら中島本町の元住民の証言を聴き取った。制作に協力した元住民たちの名前は、エンドロールに記された。

「この世界の片隅に」で描かれた濵井理髪館。濵井徳三さんの父、母、兄、姉がいる(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

ハワイ出身の母


濵井理髪館の軒先に立つ母・濵井イトヨさんと2歳前後の徳三さん(1936年撮影)

「ハワイ生まれの母は、6年生の時に両親と一緒に日本に引き揚げてきたそうです。母方の祖父は、ハワイで自動車修理工場を営んでいたそうです。日本語と英語が話せた母は、まわりの女性達がみんな地味な着物にモンペを着ていたころでも鮮やかな青色の花柄の日傘を差しワンピースを着る人でした。子ども達の服は、母がミシンで手作りしてくれていました。」

広島は、多くの海外移住者が輩出した全国一の移民県だった。JICA横浜海外移住資料館によると、その数は戦前戦後10万9893人で、2位は沖縄県だった。広島から海外への本格的な移民は、1885年のハワイ王国への第1回官約移民に始まり、北米や中南米などへと広がった。当初は、海外で一定期間働き、稼いだ金を故郷に持ち帰る出稼ぎ型が主流だった。

産業奨励館


広島県産業奨励館の川向かいで、姉や仲間たちと。真ん中の大人は店で働いていた職人さん、 その足元で座っているのが濵井徳三さん(1938年撮影)

「今原爆ドームと言われている建物は、昔は産業奨励館と言っていました。中に入るとらせん階段があって、手すりで滑って遊んだりしました。夏は自宅と奨励館の間を流れる元安川に入って遊んだり、元安橋から度胸試しで飛び込んだりして遊びました。」

原爆ドームは1915年、広島県物産陳列館として建てられた。れんが造りの3階建て、階段室となっていた5階建ての正面中央部分の屋根は楕円形のドームで、チェコ人の建築家ヤン・レツルが設計した。原爆投下当時は、県産業奨励館と改称され、官公庁の事務所などとして使われていた。


左が濵井徳三さん、右が兄・玉三さん。後ろに広島県産業奨励館が見える。1938年撮影。

無得幼稚園

1940年秋、無得幼稚園であった運動会。写真中央、こちらを向いているのが6歳のころの濵井徳三さん

「近所でよく遊んでくれた仲間が学校へ上がってしまい、退屈なので幼稚園に行かせてほしいと父にお願いして無得幼稚園に行きました。お弁当を持って通っていましたが、冬は大きな炭火の炬燵で弁当を温められるようになっていました。食べようと思ったらご飯が真っ黒に焦げてしまったことがありました。」

中島本町の南、現在の平和記念公園の南半分ほどの区画はかつて材木町と呼ばれており、広島平和記念資料館本館の西側付近に誓願寺の境内があった。ひょうたん池や鐘楼があり、一画に無得幼稚園があった。

幼稚園の思い出

1940年、無得幼稚園での紀元二千六百年記念行事にて。 後ろから3列目中程、エプロンに大きな印がついている子が濵井徳三さん。

「幼稚園の園長だった中村先生というおばあちゃんがこわくて、いつも叱られていました。弁当の時間に、箸で人を指して告げ口をしたら「箸で人を指すものではない」と怒られました。いつも悪さをするので、大勢の子どもたちの中ですぐ見つけられるように、母は私のエプロンに赤いだるまを縫い付けました」

1940年は神武天皇の即位紀元2600年にあたり、この前後、各地で「紀元二千六百年」記念事業が行われた。広島市によると、広島市役所敷地内のサクラの木6本のうち、3本は被爆サクラで、紀元二千六百年記念として植えられたもの。被爆で被災し、幹を残して焼けたが、今も咲き続けている。

廿日市への疎開


後に疎開した宮内村に近い原村(現在の広島県廿日市市)での母方の祖母の葬式時の写真。 左側の小さい方の子供が濵井徳三さん、その左に父二郎さんと兄玉三さん(1939年撮影)

「疎開先では、朝から夕方まで停電でした。真っ暗な外に出るのが怖くて、おしっこを我慢してよくおねしょをしました。広島なら電灯も水道もあるので辟易しました。土曜に電車で中島本町の家に帰り、日曜に廿日市に戻る生活をしていましたが、空襲で死んでもいいから家にいたいと親を困らせました。」

戦時中は電力を国家が統制しており、「ぜいたくは敵だ」の声のもとに電力消費規制が行われていた。夜の町は暗いままで、空襲目標とならないよう灯火管制という決まりがあった。真下だけ明るく照らすように電球面に塗料を塗った電球などがあった。

兄と姉


1939年、廣島陸軍病院を訪れた中島舞踊慰問団。最前列右端から3人目が濵井徳三さんで その左隣が姉・弘子さん。左後方にも父・二郎さんの姿がある。

「姉と兄はよく勉強していました。ある日、2階の壁をぶち抜いて姉と兄の勉強部屋を作ると知り、父に「俺の部屋は」と聞くと「お前は勉強しないからいらない」と言われました。姉はとても勉強ができて字が上手だったと、安田高等女学校(現在の安田女子中学校)で一緒だった姉の友人から後に聞きました。」

戦時中、兵士を慰め、士気を鼓舞することを目的に、慰問団が組成された。朝日新聞社が吉本興業に依頼してできた「わらわし隊」は有名で、戦地を訪れ、漫才などを披露した。地域単位で婦人会が中心になって、日用品などを入れた慰問袋を作ったり、慰問文を書いたりした。


1939年、9歳の姉・濵井弘子さん。写真の裏には「陸海軍病院慰問舞踊 江戸ッ子部隊一場面」と書かれている。

壁時計


濵井理髪館の店内。写真の右上に丸い壁時計がかかっているのが見える。

「壁にかかっていたドイツ製の壁時計は、私が毎朝ネジを巻いていました。ネジは左巻きで、父は私に「お前の頭よ」と言いました。「アメリカとは半日の時差があるから24時間戦わなければ」と、市役所から時計に貼るようにと13~24と書かれた紙が配られたので、私が1~12の数字の上に米をつぶしてノリにして貼りました。

1943年8月11日に制定・施行された「軍隊内務令」の第73に、「時刻ヲ示スニハ24時間制ニ依ルモノトス」と書かれている。アメリカでは今も、時刻の24時間表記のことを「military time(ミリタリータイム)」と言う。

8時15分を指した時計


濵井理髪館の店内。写真の右上に丸い壁時計がかかっているのが見える。

「8月6日は学校でチャンバラをしていたら空が突然ピカっと光って地響きが起き、きのこのような雲が現れました。2日後、「学校を休んで中島本町の家を見てきなさい」と言われ、叔父と一緒に行きました。焼け跡には焼けた理髪椅子がありました。叔父が見つけた皿時計は、押し入れにしまっていました。」

中島本町を含む中島地区はほぼ壊滅状態となり、「地区内にいた者は、全滅状態と言ってよいほど死亡」(広島原爆戦災誌第2巻)。町民慰霊碑として、平和記念公園内に1956年に平和の観音像が建立された。徳三さんは、1998年に時計を平和記念資料館に寄贈した。


中島本町会が建てた「平和の観音像」。犠牲者の名前を刻んだ銘板も設置された。

中島本町の思い出


1955年、広島県産業奨励館跡にて。右に立つのが濵井徳三さん。

「毎年8月6日には中島本町があった場所で慰霊祭を続けています。でも、平和記念公園に行くと胸が苦しくなるんです。私は、原爆ドームの保存には反対でした。子どものころにいたずらをしながら毎日楽しく遊んでいた思い出の中の産業奨励館は、楽しい思い出の中だけに存在し続けてほしいと思うからです。」

1996年に世界遺産に認定された原爆ドームだが、かつては解体を求める声が上がっていた。原爆投下15年後、被爆者の高校生が、ドーム保存を願う日記を残して亡くなったことがきっかけで保存運動が起こった。定期的に補強工事などが行われている。


元安川対岸、かつて中島本町があった場所からみた現在の原爆ドーム

メッセージ

「世界中から多くの人々が平和記念公園に来てくださるのはありがたいけど、両親やきょうだいの頭を踏み付けられているような気もするんです。ここには多くの人たちの生活があって、それがいっぺんに奪われた。平和記念公園に来たらぜひ、かつての街並みやそこで暮らしていた人々の思いを想像してほしいです。」

スライド教材 「被爆前の広島の日常 原爆ドームが産業奨励館だったころ」
教材作成:林田 光弘( R E C N A 特任研究員) / 宮崎 園子(フリーライター)
写真提供:濵井徳三
デザイン:大久保舞花

参考文献・WEBサイト

文献

  • 広島市役所編(1971)『広島原爆戦災誌』広島市
  • ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会(2017)『証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町』ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会

Webサイト

  • 「平和記念公園( 爆心地)街並み復元図」中国新聞社,https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?page_id=25623,(参照 2023-02-20)
  • 『海外移住資料館だより 2017春』JICA横浜海外移住資料館,https://www.jica.go.jp/jomm/outline/ku57pq00000lx6dz-att/dayori45.pdf,(参照 2023-02-20)
  • 「原爆(げんばく)ドームについて」広島市,https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/163434.html,(参照 2023-02-20)
  • 「戦時中の生活等を知るための用語集」総務省,https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/word/index.html,(参照 2023-02-20)
  • 岩瀬春美(2012)「「笑うことは生きること」、戦地の芸人を吉本が描く」朝日新聞デジタル,https://www.asahi.com/showbiz/stage/spotlight/OSK201208150070.html,(参照 2023-02-20)
  • 「NHKアーカイブス日本ニュース 第 23号」日本放送協会,https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300408_00000,(参照 2023-02-20)
    「失った命は二度とかえらない(濵井徳三)」Hiroshima Speaks Out,https://h-s-o.jp/hamai/,(参照 2023-02-20)

スライド教材

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