被爆前の長崎の日常 原爆に奪われた町と文化
目次
概要
長崎駅前周辺エリアにかつてあった町「船津町」は、長崎で最も有名なお祭り「長崎くんち」がはじまった1634年から参加した踊町の一つ。原爆は祭りの担い手や道具まで奪い、戦後に船津町が再び参加することはありませんでした。戦後生まれの黒﨑さんは、かつて父や祖父が参加した船津町のくんちを知りません。写真収集が趣味の黒﨑さんが保管している写真をもとに、被爆前の船津町での家族の暮らしをまとめました。
黒﨑雄三さん
1954年、長崎市生まれ。父の一家は戦後まもない時期まで現在のJR長崎駅近く(当時の町名は船津町。現在の恵美須町)に住んでいた。一帯は原爆で焼け野原となり、復興に伴う区画整理で変わった。父や祖父が暮らした、かつての町の手がかりを集めている。
歴史を伝えるジオラマ
2023年3月28日撮影(展示場所)浦上キリシタン資料館
「これは世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の模型です。私が趣味で作りました。本やネットの情報をもとに9か月かけました。長崎の教会や長崎歴史文化博物館で展示されたんですよ。他にも2代前の長崎市庁舎や被爆前の県庁舎などを作りました。」
上の写真も黒﨑さんのコレクションの一つ。上野彦馬(日本における写真術の始祖)に師事し、明治はじめに熊本や島原で活動した中島寛道が撮影した写真。黒﨑さんは趣味で長崎にまつわる古写真や広告チラシ、絵葉書などを集めている。
100年前の記念写真
1921(大正10)年ごろ、祖父は左から2番
「私の祖父の写真です。大正10(1921)年ごろ、100年ほど前です。祖父は20代前半。一緒にいるのは職場の仲間だと思いますが、ポーズまで決めて凝ってますね。キリンビールの大瓶が写っていますが、今のデザインとほとんど変わらないですね。」
当時、カメラは高級品で、個人で持っている人は少なかった。写真は写真館でカメラマンに撮ってもらうのが一般的で、ひとりで、あるいは家族や友人たちと一緒に撮影した。カメラの前に立つ際、せいいっぱいおしゃれをしたり、小道具を手にしたりした。
100年前の記念写真2
1921(大正10)年ごろ撮影、祖父は左から2番目
「これも同じころに撮られた写真です。法被に書かれた「福地屋」は、祖父の職場でした。今のJR長崎駅近くに店を構え、かまぼこ屋、漁業、魚関係の運送業などを手広く営んでいました。祖父は福地屋で魚のさばき方などいろいろな修行をしたそうです。」
1921(大正10)年ごろ撮影、祖父は右側
黒﨑さんの祖父は小値賀島(長崎県の離島)出身。祖父や父が暮らした長崎市内の家は、原爆で全焼したが、ここで紹介する家族の写真は、祖父が小値賀島の実家に送っていたため、焼失を免れた。
富貴楼
富貴楼の全景をとらえた絵はがき
「祖父は福地屋で働いた後、老舗の料亭『富貴楼』に移り、板前として働きました。これは富貴楼の絵はがきです。長崎のお祭り『長崎くんち』で有名な諏訪神社の近く(長崎市上西山町)にありました。老朽化や後継者難から2017年に休業し、2018年に解体されました。」
絵はがきがはいっていた袋
富貴楼は、江戸時代の1655年ごろに創業した料亭が起源とされる。坂本龍馬や岩崎弥太郎ら数多くの名士が訪れたと伝えられ、1889(明治22)年に伊藤博文が屋号を「富貴楼」と命名した。建物は木造3階建て、建築面積約750平方メートルで、国登録有形文化財だった。
皇室の料理番
大正15(1926)年撮影
「真ん中は、当時の『皇室の料理番』、宮内省大膳職の料理人です。大正15(1926)年1月から3か月間、富貴楼に住み込み、長崎伝統の『しっぽく料理』を祖父(写真右)たちが伝授したそうです。そのお礼として馬を贈られました。」
大正15(1926)年撮影
「しっぽく(卓袱)料理」とは、長崎で食されてきた日本料理・中華料理・西洋料理が影響し合って発展したコース料理。円卓を囲み、大きな器に盛った料理を取り分けて食べる。福岡県を訪れた皇族に富貴楼が出向いて提供した料理が好評で、料理人の派遣につながったとされる。
江戸時代生まれの曽祖父
1928(昭和3)年撮影
「真ん中の男の子が、昭和2(1927)年6月生まれの私の父。初節句の写真です。右端は私の曽祖父。180センチを超える当時としてはかなりの大柄で1864年に生まれ、1942年までとかなり長生きしました。昭和の前半というのは、江戸時代生まれの人がまだ健在だった時代なんですね。」
撮影場所は長崎市船津町にあった黒﨑さんの父の家。祖父の最初の職場「福地屋」に近かった。立派なこいのぼり、五月人形、掛け軸が飾られ、黒﨑さんは「祖父の仕事が順調で、裕福だったのでしょう」と話す。
長崎くんち 船津町の川船
1929(昭和4)年撮影
「船津町は『長崎くんち』に参加し、『川船』という『演し物』(だしもの=奉納踊)を演じていました。昭和4(1929)年の集合写真ですが、子どもがたくさんいて、町はにぎやかだったようですね。この一帯は原爆によって焼けてしまい、今はその名残もありません。」
1929(昭和4)年撮影 左は黒﨑さんの父(当時2歳)、右は父の姉
「長崎くんち」は諏訪神社の秋の大祭。毎年10月7日から3日間、催される。「踊町」(おどりちょう=踊りを奉納する町)が毎年交代で町ごとの奉納踊を披露する。船津町は、長崎くんちがはじまった1634(寛永11)年から参加してきたと伝えられている。
庭見世
1936(昭和11)年撮影
「昭和11(1936)年に父の家で撮った写真です。長崎くんちで使う小道具や衣装を披露しました。祖父は昭和4(1929)年には船津町の参加者の一人だったのですが、このころには偉くなって『添根引』という役に就いていたことが、当時の新聞に出ています。」
1936(昭和11)年撮影 黒﨑さんの父(当時9歳)と祖父
写真は、長崎くんちの行事の一つ「庭見世」(にわみせ)。この翌年(1937年)に日中戦争がはじまると、「非常時」として奉納踊は中止される年が相次いだ。船津町の奉納踊は1936年が最後となり、戦後復活することはなかった。
富貴楼前での記念写真
1935(昭和10)年撮影
「昭和10(1935)年のお正月、富貴楼の玄関で撮った写真です。当時の同僚たちとの写真でしょうか。以前富貴楼の方に尋ねたことがありますが、祖父以外にどんな人が写っているのかわかりませんでした。スーツや着物姿で髪を整え、いま見てもおしゃれですね。」
このころまでは、このように着飾ることができた。日中戦争がはじまって戦時体制に突入すると、次第に物資が不足。1940(昭和15)年には配給制度がはじまり、「ぜいたくは敵だ」という標語が登場した。
戦時下の変化
1942(昭和17)年ごろ撮影、前列左が祖父、2人目が父
「昭和17(1942)年ごろの家族写真です。父は長崎市立商業学校(現在の長崎商業高校)の生徒でした。祖父は当時40代前半でしたが、これ以前に撮った写真と比べると、戦時下の苦労のせいなのか、痩せてしまい老けて見えますね。」
祖父が着ているのは「国民服」。軍服としても着られることや経済性などから、政府が1940(昭和15)年に制定し、戦時中は男性に広く普及した。色は国防色(軍服と同じカーキ色)。上着とズボン、シャツ、帽子、コート、手袋、靴があった。
8月9日
所蔵:長崎原爆資料館 手前に見えるのが、船津町にあった三菱病院。山側はまだ建物が残っているのがわかる。
「昭和20(1945)年8月9日に原爆が投下されたとき、父や祖父は家にいたそうです。爆心地との間の山が熱線をさえぎり、家は当初は残っていました。ですが、市内に燃え広がった火が船津町にも迫り、父は『米びつを抱えて近くの忠魂碑がある山の上に逃げた』と語ってました。」
忠魂碑とは「国への忠義のために死んだ人の魂をたたえる碑」で、戦争で死んだ地域出身の兵士を記念して各地に建立された。黒﨑さんは「父が忠魂碑に到着した時、米びつを確認したところ慌てていたのか、間違えて空っぽの米びつを持って走っていたそうです」と語る。
長崎原爆資料館所蔵 船津町周辺(現在の恵美須町周辺)
「被爆後の船津町周辺です。父は戦後、バラックを建てて住んでいましたが、復興に伴う区画整理で立ち退きました。長崎くんちの小道具や衣装も焼け、船津町の奉納踊は途絶えました。町名は昭和38(1963)年に『恵美須町』に変更され、船津町は地図から消えました。」
恵美須町にある「船津橋」(2023年3月28日撮影)
船津町は爆心地の南約2.7キロ。木造の家が多く、ガラスが割れるなどの被害が出たが、原爆炸裂直後には火災は起きなかったとされる。だが、しばらくすると、くすぶっていた火が次第に大きくなって燃え上がり、船津町にも火が回って全焼した。
メッセージ
「『船津町』は原爆によって焼け、さらに復興の区画整理で変ってしまいました。長崎くんちの伝統も途絶え、私の世代は、先人たちが繋いできた奉納踊を披露することも見ることもかないませんでした。いまは町名も変わってしまい、船津町という地名を知っている人は多くありません。まさに町が『消えた』のです。」
スライド教材 「被爆前の長崎の日常 原爆に奪われた町と文化」
教材作成:林田 光弘( R E C N A 特任研究員) / 佐々木 亮(フリーライター)
写真提供:黒﨑雄三 /長崎原爆資料館
参考文献・WEBサイト
文献
- 長崎原爆資料館 編(2006)『長崎原爆戦災誌』第1巻・第2巻・第3巻,長崎市
- 市制百年長崎年表編さん委員会 編(1989)『市制百年長崎年表』長崎市
- 布袋厚(2020)『復元!被爆直前の長崎 : 原爆で消えた1945年8月8日の地図』長崎文献社
- 長崎市秘書課 編(1955)『長崎市政展望 49号~199号/昭和30年4月~同42年9月』長崎市
- 長崎くんち塾 編(2021)『「もってこーい」長崎くんち入門百科 (長崎游学)』長崎文献社
- 土肥原弘久 編(2018)『新聞が伝えた諏訪神事 : 長崎くんち : 明治二十年から昭和二十五年まで』ゆるり書房
Webサイト
- 「戦時中の生活等を知るための用語集」総務省,https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/word/index.html,(参照 2023-03-20)
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