原爆が奪った兄と友 疎開が分けた一家の生と死

概要

爆心地に近い城山地区で生まれ育った齊藤さんは、建物強制疎開によって家が取り壊しになったため、友人たちや中学生の兄と別れ、1945年7月に家族で宮崎県庄内の家に移ります。翌月に投下された原爆投下によって、一時的だと思っていた別れを生死を分けるものになってしまいました。亡くなった友人や兄との思い出について、写真とインタビューをもとにまとめました。

齊藤 武男さん

齊藤 武男(さいとう たけお)さん

1937年生まれ。爆心地に近い城山地区(当時の町名は城山1丁目)出身。生家は戦時中、建物強制疎開で取り壊され、校区内で引っ越しをする。一家は45年夏、勤労動員中だった兄を残して宮崎県に疎開した。城山の留守宅一帯は原爆で大きな被害が出た。

家族写真

1943(昭和18)年 庄内で撮影した家族写真 両親、兄(前列中央)と姉、私(前列右から2人目) 弟と妹の7人家族。左端は住み込みのお手伝いさん

「戦時中に家族そろって撮った写真で、残ったのはこの一枚だけです。7歳上の兄が旧制海星中学に入学した昭和18(1943)年ごろ、父の故郷の庄内(現在の宮崎県都城市)に帰省した時に撮りました。当時、わが家は両親、兄(前列中央)と姉、私(前列右から2人目)、弟と妹の7人家族でした。左端は住み込みのお手伝いさんです。」

旧制中学は現在の中学・高校にあたる。5年制だったが、戦争拡大に伴う労働力の不足から、齊藤さんの兄が入学した1943年から工場などへの「学徒動員」が本格化した。動員は年々強化され、授業はなくなり、生徒は連日、工場などで働かされた。

餅つき

1937(昭和12)年 城山幼稚園

「兄の城山幼稚園アルバムの一枚、園の餅つきの写真です。私が通ったころ(1941~43年)は、戦争のためか、食糧難のためか、餅つきをした記憶がありません。兄のアルバムには何かの発表会や作品展示のような写真もありますが、私のアルバムにはそうした写真が無いので、行事もほとんどなくなっていたのでしょう。」

1937(昭和12)年に勃発した日中戦争が拡大すると、農村の担い手が兵隊に取られ、食糧難を招いた。齊藤さんが幼稚園に入った1941年4月から東京や大阪など6大都市で米の配給制が始まり、翌年には全国に広がった。砂糖や味噌、卵などの食料品、衣類なども配給制となり、暮らしの中で戦時統制が色濃くなった。

模型で見る長崎の街並み

1937(昭和12)年 城山幼稚園

「幼稚園の展示でしょうか。長崎の街の模型ですね。おくんち、龍踊り、ハタ揚げ(凧揚げ)、港で船にテープを投げて見送る人たち、眼鏡橋、崇福寺、大浦天主堂……。よく見ると、当時長崎にあったアメリカ領事館の星条旗もあります。」

現在は長崎にアメリカ領事館は無いが、この当時はあった。幕末の開国・開港(1858年)を受けて開設され、東山手や南山手、大浦など何度か場所を移しながら、日米関係が悪化していった時期にも残り、日本軍による真珠湾攻撃(1941年12月8日)直前まで存続した。

兄が描いた絵

1937(昭和12)年 お兄さんの作品集より 海上で戦闘する軍艦が描かれている

「兄が幼稚園のときに作った貼り絵を収めたアルバムです。描かれているのは、端午の節句やホタル狩り、ハタ揚げのほか、軍艦同士の海の戦いもあります。幼稚園児が描く絵としては、時代を映しているというか、今とは随分違いますね。」

1937(昭和12)年 お兄さんの作品集より ハタ揚げは長崎名物の一つ

在郷軍人の園長先生

1941(昭和16)年 城山幼稚園 齊藤さんは3列目の右から4番目

「ここからは私のアルバムの写真です。私が幼稚園に入ったのは、太平洋戦争が始まる年(1941=昭和16年)でした。園長さん(右端)は在郷軍人でした。入園式では軍服を着て、勲章をたくさんつけてこられました。2歳下の弟は園長を怖がってよく泣いていて、私は困っていました。」

在郷軍人とは、現役を離れた予備役・後備役などの軍人。平時は民間で仕事に就き、戦時には必要に応じて召集に即応した。日露戦争後の1910年からは各地に在郷軍人会が組織され、召集に備えた訓練・修養のほか、防空演習など住民の指導にもあたった。

金属供出

1941(昭和16)年 城山幼稚園

「幼稚園の園舎は平屋でした。隣家との間には鉄の柵があったのですが、戦争中のいわゆる『金属供出』で、みんな切り取られたのが記憶に残ってます。供出は子どものおもちゃにもおよび、私の鉄製の三輪車も供出させられました。代わりに木製の三輪車を父が手に入れてくれました。」

戦争の激化に伴い、資源を輸入に頼っていた日本では武器生産に必要な金属が不足した。1941年には「金属類回収令」が出され、銅像や寺の鐘などの文化財、門や柵、家庭の鍋や釜、装身具やおもちゃまで幅広い金属製品が供出の対象となった。一部で陶製や木製の代用品が使われた。

運動会

1941(昭和16)年ごろ 城山国民学校(現在:城山小学校) 城山幼稚園の運動会の様子

「幼稚園の運動会では城山小学校(当時は国民学校)の校庭を借りました。今はありませんが、学校には土俵がありました。写真に写っているのはフォークダンスをしているところでしょうか。ほとんど覚えていませんが、衣装のようなものを着て踊っているようですね。」

城山小学校は1923年の創立で校舎は九州初の鉄筋コンクリート3階建てだった。1937年には白い壁に丸い窓が特徴的な新校舎(本館)が建設された。2棟の校舎は原爆で大きな被害を受けたが、倒壊を免れた本館の階段棟が現在「平和祈念館」として公開されている。

被爆後の城山国民学校周辺提供:長崎原爆資料館

護国神社

1944(昭和19)年ごろ 護国神社

「これは護国神社です。子どものころ、よく掃除に行き、その後、祝詞をあげてもらいました。当時の子どもたちは栄養不良で青ばな(鼻水)を垂らしていたですが、祝詞の間、頭を下げっぱなしにしていると鼻水が出てきて、みんなでズルズルとすすり、笑ってしまいました。」

齊藤さんは子どものころ、きちんとした直立不動が苦手だった。「整列するとき、背が低いので一番前にいたものだから、動いていて目立ち、よく叱られました」と振り返る。写真の護国神社は爆心地西北西0.8キロにあり、原爆で本殿や大鳥居などが全焼。1963年に再建された。

ゆうちゃん

1945(昭和20)年ごろ 中央に映るのがゆうちゃん

「近くに住んでいた幼なじみのゆうじ君一家です。ゆうじ君(写真中央)は私より1学年上でしたが、勉強がよくできて、しっかりしていました。私たちは『ゆうちゃん』『たけおちゃん』と呼び合って、よく遊びました。お母さん同士も仲良しでした。ゆうじ君の家は広くて、近所の子どもが集まって勉強会をしました。自習でしたが、いたずらをして、お母さんに怒られたのを覚えています。」

城山小学校では当時、空襲から児童を守るため登校を停止し、町内ごとに児童が集まって父母が指導する学習に移っていたという。1945(昭和20)年夏、疎開していた齋藤さんのもとに、ゆうじ君から郵便が届いた。「たけをちゃん ぶじにつきましたか あしたから学校がはじまります」などと、普段と変わらぬ様子が綴られていた。

兄からの手紙

1945(昭和20)年8月5日 付の兄からの手紙

「昭和20年7月末、一家は父の故郷の庄内に疎開しました。旧制中学3年で工場に動員中の兄だけが同行を許されずに長崎に残りました。長崎を発った列車を、兄は現長崎電鉄大橋駅停車場前の線路際で見送り、手を振ってくれました。それが兄の姿を見た最後になりました。これは兄から母や私たちへの手紙です。8月5日の消印がありましたが、届いたのは8月9日から数日後でした。」

手紙には長崎の空襲被害を報告した後、「今度の空襲はひどいだろうと想像されます。その時、僕はどうなるかわかりません。もし死ぬとしたら、みにくくは死なないつもりでおります。お母さんは元気にしていて下さい」とした後、齊藤さんら弟妹を「カラダヲツヨクシテ大キクナリナサイ」と思いやる言葉が記されていた。

「長崎が全滅した」

上空から見た被爆後の城山国民学校一帯 提供:長崎原爆資料館

「『長崎が全滅した』という知らせが疎開先にあり、両親は急いで長崎に戻りました。友だちの家に下宿していた兄を探し回りましたが、見つけることはできず、亡くなった場所は分かっていません。家のあった城山付近は焼け野原になり、母の兄弟2家族も全滅。ゆうじ君も弟、妹、お母さんとともに犠牲になりました。」

城山地区(当時は城山1丁目)は爆心地の西約300~1800メートルに位置する。『長崎原爆戦災誌』によると、1945年8月9日に町内に居合わせた人のうち約60%が即死またはその日のうちに死亡し、その後、1年以内の死者を合わせると、80%以上が死亡したという。

兄の服を持つ齊藤さん

「これは兄が中学時代に着ていた服です。仕立て直して私や弟に着せようと思ったのか、母が疎開先に持って行ったため、形見として残りました。小さいでしょう。今なら小学6年生くらいの体格でしょうか。油の染みがあるのは、学徒動員で工場に行っていたためです。こんな子どもまで油まみれになって働いていたんですね。」

戦中の食糧・栄養不足は子どもの体格にも影響した。統計によると、14歳男子の平均身長は1939年に152.1cm、平均体重は43.6kgだったが、終戦後の1948年には146.0cm、38.9kgとなり、現在の11歳とほぼ同じ水準まで落ちた。

メッセージ

「高校生に戦争について話す機会があり、兄の服や手紙なども見せたのですが、「あの時代の自分と同じくらいの子供たちが、こんな生活をしていたのかと、すごくショックだった」と感想を書いてくれました。いまの若い人に、もっと見て、知ってもらいたいです。それが兄やゆうちゃんたちの供養にもなると思います。」

「原爆が奪った兄と友 疎開が分けた一家の生と死」
教材作成:林田 光弘( R E C N A 特任研究員) / 佐々木 亮(ライター)
写真提供:齊藤 武男 / 長崎原爆資料館
デザイン:大久保舞花

参考文献・WEBサイト

文献

  • 長崎原爆資料館 編(2006)『長崎原爆戦災誌』第1巻・第2巻・第3巻,第長崎市
  • 市制百年長崎年表編さん委員会 編(1989)『市制百年長崎年表』長崎市
  • 布袋厚(2020)『復元!被爆直前の長崎 : 原爆で消えた1945年8月8日の地図』長崎文献社
  • 長崎市立城山小学校原爆殉難者慰霊会(2018)『平和 原爆被爆七十周年記念』長崎市立城山小学校原爆殉難者慰霊会

Webサイト

  • 「戦時中の生活等を知るための用語集」総務省,https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/word/index.html,(参照 2023-02-20)

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