被爆前の長崎の日常 女子生徒の暮らし

概要

戦時中の国民学校(現在の小学校に相当)から旧制高等女学校(中学・高校に相当)について、その時代に育った岩永さんの写真とインタビューをもとにまとめました。クラブ活動や音楽にいそしむことができた日々から、制服のスカートがモンペになり、魚雷工場に駆り出されるなど、次第に戦時体制に組み込まれていきます。原爆による火災を免れた、当時を物語る貴重な品についても語ってもらいました。

岩永美代子さん

1930年生まれ。長崎市繁華街のアーケードや観光名所・眼鏡橋そばに自宅があり、旧制長崎県立長崎高等女学校4年だった15歳のとき、自宅近くで被爆した。同級生には学徒動員中に城山国民学校で原爆の犠牲になり、「嘉代子桜」の物語で知られる林嘉代子さんがいた。

家族写真


1930年代後半撮影、左から2人目が岩永さん

店舗兼自宅の縁側で撮った家族写真です。私は姉2人、弟1人の4人きょうだいです。わが家はクギや針金、船体に貼る銅の板など金属資材関連の卸小売店を営んでいますが、私が子どものころには、住み込みで働く男性従業員もいました。

岩永さん一家が営む「岩永金物店」は、岩永さんの祖父が1895(明治28)年に創業し、岩永さんの夫が3代目。現在は岩永さんの息子が4代目を継いでいる。


1920年代なかばごろ撮影、岩永金物店の店先で従業員たち

岩永金物店


1930―40年代前半ごろ

岩永金物店の店先です。長崎市中心街の中島川沿いにあります。長崎港に着いた商品を店に運ぶのに、川のそばは団平船(小舟)が使えて便利だったからです。川岸で荷揚げして大八車で運びました。右奥の賑橋には路面電車が走っていますね。

岩永金物店は2003年に建て替えられたが、現在も同じ場所にある。賑橋は、長崎原爆の最初の投下目標だった。対岸の街並みは戦争末期の「建物強制疎開」で撤去され、更に地なった。「建物強制疎開」については、この企画の三瀬清一朗さんのスライドも参照。


現在の岩永金物店と賑橋付近(2024年撮影)

西古川町と長崎くんち


1916年撮影。岩永さんの叔父が子どものころの西古川町のくんちの様子

お店があった長崎市西古川町(旧町名)は長崎くんちの踊町で、演し物は昔から相撲にちなんだものでした。この写真のころのくんちは子どもが主体で、男の子は化粧まわしで着飾って出たんですよ。今でもシャギリ(奉納踊りのおはやし)の音を聴くと胸がわくわくするの。

現在の岩永金物店があるのは『長崎市万屋町』だが、戦後の1966年までは『長崎市西古川町』だった。1937(昭和12)年のくんちには、当時の人気力士だった双葉山の扮装で弟が出演する予定だったが、日中戦争勃発の影響で奉納踊りは中止になった。

1916年撮影。岩永さんの叔父が子どものころの西古川町のくんちの様子

被爆前の繁華街


撮影年不明、戦前は「柳通り」と呼ばれた現在の「観光通り」付近。1940年度の長崎商業学校卒業アルバムから引用。

父と一緒によく散歩に出かけ、いまもあるカフェ「ツル茶ん」に寄って、名物のミルクセーキを食べるのが楽しみでした。1939年に「浜屋デパート」がオープンした時には、売り場が地下にあるのを初めて見て驚きました。

浜町デパートが開業したころには戦時色が次第に強まり、1938年から長崎の名物行事であるハタ揚げが中止、精霊流しが自粛となった。

国民学校時代の文集


岩永さんが国民学校6年のときの学級文集より

国民学校(現在の小学校)6年のときの文集です。作文も短歌も戦争のことを書いたもの、勇ましいものが多いですね。私も始まったばかりの太平洋戦争のことを書いた作文や短歌を載せています。戦争中は「日本は勝つんだ!」って思っていました。

小学校が「国民学校」に変わったのは、岩永さんが6年生だった1941 (昭和16)年。この年12月に日本はアメリカやイギリスなどと開戦した。家のラジオのニュースが戦況を伝える度に、地図を持ち出し、「これを占領」「ここに上陸」と確かめたことを、岩永さんは作文に書いている。


岩永さんが国民学校6年のときの学級文集

長崎県立長崎高等女学校


1942(昭和17)年6月撮影、長崎県立長崎高等女学校1年3組の集合写真。隣に座るのは「嘉代子桜」で知られる林嘉代子さん

国民学校を卒業後、長崎県立長崎高等女学校に進みました。入学試験は、いまで言う内申書と運動でした。レンガを持って走ったり、ボールを投げたりした記憶があります。鉄棒のけんすいもあったかなぁ…。

旧制高等女学校は現在の中学・高校に当たる。県立長崎高等女学校(長崎高女)は1901年に開校し、「長崎くんち」が奉納される諏訪神社の近く、長崎市西山地区にあった。

満州への修学旅行


1940年、奉天(現在の中国・瀋陽)での記念撮影『たちばなの歩み100年 長崎県立長崎高等女学校創立百年記念誌』(2000年、橘同窓会発行)より引用

私たち姉妹はみんな長崎高女で学びました。1番上の姉は1940(昭和15)年、「外地」と呼ばれていた朝鮮と当時の満州(現在の中国東北部)へ修学旅行に行っていました。学校としては初めての「外地旅行」で、この学年だけで終わりましたが、海外に行けてうらやましかったですね。

当初の行き先は中国を希望していたが、許可が下りず、朝鮮と当時の満州となった。この旅行のことを書いた生徒から父親あての手紙が検閲でとがめられ、本人へ戻されたという逸話もある。[/anotherpost]

バラバラの制服


1940年代前半撮影、右端が岩永さん

長崎高女の同級生と撮った写真です。制服がバラバラなのは、戦争中の物資不足で『手に入る服を着てくれば良い』となっていたからです。私は姉のお下がりを着て通いました高女の制服は胸にリボンがついたブラウスで女の子たちのあこがれ。それを着たくて入学する生徒も多かっただけに、みんな残念がっていました。

[pborder]当時はカメラは高級品だった上、長崎は要塞地帯で写真撮影が厳しく規制されていたため、写真は写真屋に撮ってもらうのが一般的だった。「お正月なんかに『せっかくだから撮りに行こう』って、友達グループで写真屋に行きました」と、岩永さんは振り返る。

カドリーユ


1942年撮影 『たちばなの歩み100年 長崎県立長崎高等女学校創立百年記念誌』より引用

運動会では上級生が「カドリーユ」と呼ばれるダンスを踊るのが恒例でした。女子校でしたが、運動場で軍事教練もあったんですよ、体力づくりも重視していて、遠足では片道10キロの道のりを水筒代わりにキュウリを持って歩いたこともありました。遠足というより、訓練か行軍のようでしたね。

1942年の運動会でのカドリーユの様子。カドリーユは「クヮドリール」とも呼ばれ、4人1組で踊るヨーロッパ発祥のダンス

テニス部


1943年ごろ撮影、テニス部時代の岩永さん(前列左端) Photoshopニューラルフィルターでカラー化:RECNA

クラブ活動は2番目の姉がテニス部だったので、私もテニス部に入りました。顧問の先生は厳しくて、練習中に「走れ!」「球に追いつけ!」と大声で言われることもあったけれど、今のように放課後、暗くなるまで活動するようなことはありませんでした。私は強い球を打つのが得意だったんですよ。

戦時中は英語が『敵性語』として禁じられ、テニスは『庭球』と漢字名で呼ぶようになりました。テニスだけでなく、バレーボールは『排球』(はいきゅう)、バスケットボールは「籠球」(ろうきゅう)と呼んだ。


岩永さんの2番目の姉と姉の同級生たち

ピアノの音楽会


1942年ごろ撮影。後列左から2人目が岩永さん

ピアノ教室の音楽会の写真です。ピアノは子どものころから習っていて、この時は「バイエル100番」を弾きましたが、ベートーベンの「月光」も弾けたんですよ。戦時中は音楽でも英語が禁じられ、コードは「和音」、コードを表すCDEFG…は「ハニホヘト」と呼んでいました。

学徒動員


1944年の下校風景 橘同窓会編(2000年)『たちばなの歩み100年 長崎県立長崎高等女学校創立百年記念誌』より引用

戦争が進むと、制服のスカートはモンペになりました。3年生の秋には学徒動員が始まり、魚雷工場で働かされました。戦争が終わって授業が再開される4年生の秋まで、たまの登校日以外は学校に行くことはなくなりました。勉強らしい勉強はほとんどできなかったですね。

[pborder1944年2月ごろの下校風景。テニスやピアノにいそしむことができた生活から一変した。後ろの校舎の壁は翌年、敵機の目をくらますために黒色に塗られたという。

1945年8月9日


1930〜40年代前半ごろ撮影。岩永さんの家の前にかかる賑橋。当初の原爆投下目標だった

私は普段から体が丈夫だったのですが、あの日、1945年8月9日に限って朝からだるく、仕事に行きたくありませんでした。父に相談すると、「医者に診断書をもらって休めばいい」と言われました。そこで父と一緒に自宅近くの医院に行き、待合室に座って体温を測っていた時に原爆が炸裂しました。

大八車


岩永さん一家が使った大八車。頑丈なつくりで、組み立てれば今でも使えるという

一つ前の写真にも写っている大八車です。いまは分解して、店の倉庫に保管しています。原爆が落とされた1945年8月9日のうちに、私たち一家は、これに食糧や身の回りの物を積んで、日見にある母の実家に避難しました。当時の大八車が残っているのは、とても珍しいんじゃないでしょうか。

[pborder岩永さんは長崎市郊外にあった母方の実家を経て島原半島北部に身を寄せ、そこで敗戦を迎えた。避難する際に爆心地付近を通らなかったため、その惨状を当時は知らず、被害の本当の大きさも想像がつかなかったという。

4歳下の弟


1940年代前半ごろ撮影

4歳下の弟、恒夫と撮った写真です。恒夫は飛行機が好きで、空襲警報が出ているのに、爆音を聞いて飛行機を見ようと家から飛び出し、慌てて連れ戻したこともあります。小さいころから体が弱く、肺を患って寝つき、1947年春に亡くなりました。

戦争中は食糧増産のため小学生にも勤労奉仕の畑仕事が課され、恒夫さんも重い肥料を担いで坂道を上るなどした。「体を壊したのは、きつい作業がたたったのでしょう」と、岩永さんは話す。戦後も続いた物資不足や食糧難の中、両親は恒夫さんに栄養のあるものを食べさせようと苦心した。

メッセージ

戦争がなければ、物資不足や食糧難がなければ、恒夫は元気だったのに、生きていれば楽しかったろうに、と今も思います。いとこの一人は海軍で戦死しましたが、出征する時に恒夫の見舞いに来て、手を振りながら去って行った姿を覚えています。ほかにも、戦争や原爆の犠牲になった親戚や友達がいます。あのような時代があって今がある、と知ってもらいたいです。

スライド教材 「被爆前の長崎の日常 女子生徒の暮らし」
教材作成:林田 光弘( R E C N A 特任研究員) / 佐々木 亮(フリーライター)
写真提供:岩永美代子 / 長崎原爆資料館

参考文献・Webサイト

  • 長崎原爆資料館 編(2 0 0 6)『長崎原爆戦災誌』第1巻・第2巻・第3巻,第長崎市
  • 市制百年長崎年表編さん委員会 編(19 8 9)『市制百年長崎年表』長崎市
  • 布袋厚(2 0 2 0)『復元!被爆直前の長崎 : 原爆で消えた19 4 5年8月8日の地図』長崎文献社
  • 橘同窓会 編(2000)『たちばなの歩み100年 長崎県立長崎高等女学校創立百年記念誌』橘同窓会
  • 磨屋小学校創立百周年記念行事委員会 編(1973)『創立百年史』磨屋小学校創立百周年記念行事委員会
  • 土肥原弘久(2021)『長崎くんち奉納踊の軌跡 ~諏訪神事踊の系譜 近現代篇~』ゆるり書房
  • 「戦時中の生活等を知るための用語集」総務省,https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/word/index.html,(参照 2024-03-20)

スライド教材

こちらの記事は教育現場で活用いただくためスライド教材としてご覧・利用いただけます。PDFデータは下部よりダウンロードしてください。(ご利用にあたってはスライドに記載の注意事項を遵守してください)

 

授業用補助資料

スライド教材と合わせて活用いただける補助資料「戦前・戦後の年表」はこちらから。