被爆前の長崎の日常 中心繁華街の暮らし

概要

当時全国10番目の人口で栄えた長崎。その中心繁華街は人で溢れ、豊かな日常がありました。しかし、太平洋戦争に突入し、戦況の変化とともに生活は大きく変わっていきます。祖父の時代の明治期から現在にかけて繁華街で衣料品・タオルなどの卸業を営む「三瀬商店」で生まれ育った三瀬さんの写真とインタビューをもとに、長崎中心繁華街の当時の様子をまとめました。

三瀬清一朗さん

三瀬清一朗(みせ せいいちろう)さん

1935年生まれ。10歳のとき、爆心地から3.6キロの矢の平町で被爆した。当時は伊良林国民学校の5年生。祖母や母、姉、妹、弟たちと8人暮らしで父は出征中だった。生まれ育った市街中心部(旧築町)の家は建物強制疎開で撤去され、移り住んだばかりだった。

三瀬商店

少年時代を過ごした旧築町1番地(現在の万橋周辺)に立つ三瀬さん 2022年6月撮影

「『三瀬商店』があったのは、私が今立っているまさにこのあたりです。タオルやハンカチ、衣料品などの卸店で、自宅を兼ねた店舗は木造3階建てでした。地下室もあって、よくそこで遊んでた記憶があります。」

三瀬さんが育った一帯は当時も、現在も長崎市の中心繁華街。当時も県庁や警察、裁判所、学校、銀行、公設市場や商店が並んでいた。

1938(昭和13)年前後に撮影(万橋)母と番傘を指しているのが妹

長崎の賑わい

1933(昭和8)年頃撮影(三瀬商店前)赤ん坊は、前年に生まれた三瀬さんの姉

「カメラを持っているのが貴重な時代ですが、父はドイツ製のカメラを持っていました。当時はそれだけ商売も上手く行ってたんですね。築町周辺は人手も多くいろんなお店もあったので、近所だけで百貨店のようになんでも揃いましたよ。」

看板や幟、通りを行きかう人から商店街の賑わいがうかがえる。三瀬さんが生まれた1935(昭和10)年の長崎市の人口は、この年の国勢調査によると約21万人。九州では福岡市に次いで2位、全国では10位の都市だった。築町は、都市・長崎の中心地域、にぎやかな商店街の一角だった。

商売の様子

1938(昭和13)年頃に撮影(三瀬商店前)左が母、正面が妹

「写真の右側に写る木箱は今でいうダンボール。タオルなどの商品はこの箱の中に詰められて納品されました。蓋を開ける時も、大きな鍵のような器具で、鉄の留め具を外さなくてはいけなかった。この当時は店も商品で溢れて、ものがたくさんありました。」

三瀬商店は三瀬さんの祖父が明治時代に衣料品やタオル・ハンカチの卸業として旧築町で創業。学生服や働く人たちの制服などを卸しました。現在も中心部の江戸町で、当時と変わらずタオルや手ぬぐいなどの卸業を営んでいる。

1938(昭和13)年頃に撮影(三瀬商店前)右に映るのが姉

当時のおもちゃ

1936~7年頃撮影(三瀬商店前)左から姉、三瀬さん、祖母、母

「馬の頭の四輪車に乗ってるのが私です。隣の姉が乗っているのを当時は「スケート」と呼んでました。今で言うキックボードですね。当時としては流行りの洒落たおもちゃでした。」

三瀬さんは7人きょうだいの2番目。昭和時代の前半、労働力や兵力を支える人口を増やそうと、国を挙げて出産が奨励された。「産めよ、殖やせよ」といったスローガンまで登場。7人きょうだいは珍しい人数ではなかった。

父と防空団体

1930年代(昭和5~15年)頃に撮影(長崎市諏訪神社) 前列左から4番目が父

「父や近所の商店の人たちで組織されていた「築町警備班」。そろいの制服に、旗まで作ってたんですね。父が在郷軍人だったのでリーダーのような役割を担ってました。そのせいか、よく見ると父のバッジは他の人たちより1つだけバッジが多いですね。」

地域住民による防空団体とみられる。防空団体は、空襲による火災に備え、軍の指導のもとで警備や警報、避難所の管理などを任務とした。

お正月

1939(昭和14)年頃撮影(佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社) 最前列写るのが三瀬さん

「正月になると、家族だけでなく従業員もみんな連れて商売繁盛祈願のために佐賀の祐徳稲荷神社へ初詣に行きました。今見ると、子どもたちはハイカラな格好をしてますね。この時期はまだ、商売も社会の雰囲気も余裕があった状況だったんでしょうね。」

三瀬商店の得意先は広く、長崎市内に限らず、周辺の炭鉱地域も含まれていたという。写真が撮影された頃は、お金を出せばおしゃれな子ども服が手に入ったが、次第に物資が不足。翌年1940(昭和15)年には「ぜいたくは敵だ」という標語が登場する。

小学校

1941年撮影(新興善国民学校) 三瀬さんは最前列、女性の教員の左側

「私の小学校入学写真です。1クラスは60人も児童がいたんですよ。今の2クラス分の人数ですね。繁華街にある学校でしたから、商店や公設市場で働く親を持つ自分のような子どもがたくさんおりました。公設市場の人たちが住む集合住宅によく遊びに行ってましたね。」

三瀬さんが入学した新興善小学校(国民学校)には全校生徒が約1700人もいた。しかし戦後、児童数が減少し、1997(平成9)年に閉校となった。校舎は原爆投下直後、救護所として使用されたことから、跡地に建設された長崎市立図書館には、救護所の様子を再現した「新興善メモリアル」が設けられている。

お店の従業員たち

1933~34(昭和8~9)年頃撮影(三瀬商店)

「店で働いてた従業員たちです。家族のようなもんで、みんなが自分たちきょうだいにとっては親代わりでした。あの人からはよく怒られたとか、戦争が厳しい時にはあの人の実家は農家だったから野菜送ってもらったなとか、私も幼かったですが、みなさんのことはよく憶えています。」

戦争に伴う物資不足から、1940年に生活必需品の配給制度が始まり、次第に三瀬商店は商売を続けるのが難しくなった。戦況が厳しくなると従業員たちにも赤紙(軍隊の召集令状)が届き、出征していった。戦後の混乱のなかで再び会うことのなかった従業員もいたが、食糧不足を助けてもらうなど関係が続いた方もいた。

建物強制疎開

被爆前、建物強制疎開後の市街中心部(米軍撮影) 提供:(公財)長崎平和推進協会写真資料調査部会

「戦争末期になると、国策として『建物強制疎開』が行われました。私の町も対象になり、商店は1945年6月に取り壊されました。私はその春から一時、宮崎県の親類宅に疎開していましたが、8月1日に母たちが移り住んでいた矢の平町の家に帰ってきました。」

当時の建物は木造が多く、火事になるとすぐに燃え広がった。そこで、空襲で火災が発生した際、被害拡大を防ぐための空き地(防火帯)を設ける目的で、「建物強制疎開」が行われた。対象は、公共施設周辺や、防空壕の周辺、住宅密集地。長崎市では約61万平方メートルが対象となり、約2万5千世帯が家を失った。

8月9日

被爆後 中島川上空から見た長崎県庁付近 提供:長崎原爆資料館

「8月9日、自宅のオルガンで遊んでいるときに午前11時2分を迎えました。私や家族は幸い無事でしたが、爆心地近くに暮らしていたいとこなど7人の親族を失いました。もしあの日も築町で暮らし続けていたら、長崎の上空が快晴で投下第一目標地点の常盤橋付近に落とされていたら、私の命はなかっただろうと思います。」

中央左が県庁と議事堂。中央奥から右端にかけて、火災を免れた樺島町の家屋。手前右端に築町公設卸売市場。1945年8月9日に原爆が炸裂したとき、この一帯は爆心との間にある山が熱線をさえぎり、すぐには火災が起きなかった。だが、9日昼過ぎから夜中にかけて、県庁本庁舎付近から出た火が広がった。

メッセージ

「私が子どもの頃、街には豊かな生活がありました。それが次第に、従業員が兵隊に取られ、物は入らなくなり、店が取り壊され、原爆によって、いとこたちの命まで奪われました。戦後は物がない状態で商売を続けなくてはいけない、苦しい状況が続きました。写真を通じて、当時の長崎の街の光景や雰囲気、戦争のなかでそれらがどのように変わっていったのかを感じていただき、平和の尊さを学んで欲しいです。」

スライド教材 「被爆前の長崎の日常 中心繁華街の暮らし」
教材作成:林田 光弘( R E C N A 特任研究員) / 佐々木 亮(ライター)
写真提供:三瀬 清一朗 / 長崎原爆資料館 / (公財)長崎平和推進協会写真資料調査部会デザイン:大久保舞花

参考文献・WEBサイト

文献

  • 長崎原爆資料館 編(2006)『長崎原爆戦災誌』第1巻・第2巻・第3巻,第長崎市
  • 市制百年長崎年表編さん委員会 編(1989)『市制百年長崎年表』長崎市
  • 長崎市 編(1939)『長崎市制五十年史』長崎市
  • 長崎文献社(1989)『長崎事典 産業社会編 : ふるさとのこころをひらく』長崎文献社
  • 布袋厚(2020)『復元!被爆直前の長崎 : 原爆で消えた1945年8月8日の地図』長崎文献社

Webサイト

  • 「被爆を語る 三瀬清一朗さん」GLOBAL NETWORK,https://www.global-peace.go.jp/picture/pic_syousai.php?gbID=767,(参照 2022-07-20)
  • 「私の被爆ノート 真っ赤な太陽 不気味に」長崎新聞,https://www.nagasaki-np.co.jp/hibaku_note/3547/(参照 2022-07-20)

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