被爆後の長崎の日常 浦上の暮らし

概要

原爆投下後から爆心地周辺の長崎市浦上エリアの坂本町で暮らしたAさんのアルバムに残された写真とインタビューをもとに、被爆直後から1950年代後半までの暮らしの様子をまとめました。焼け野原になった被爆地で、子どもたちはどんな日常を過ごしたのか、Aさんの思い出と共に振り返ります。

Aさん

Aさん

1943年、神戸生まれ。母の実家があった長崎市坂本町は爆心地から約800メートルに位置し、被爆後は一面が焼け野が原になった。父は外国航路の機関長だったが、軍事物資を輸送中に戦死した。Aさんは母、姉とともに戦後、再建した坂本町に引越し、そこで大きくなった。

一本柱鳥居


被爆後の一本柱鳥居 提供:長崎原爆資料館

「私の母の実家があったのは、この写真のあたり。祖母はここに店を構え、野菜やたばこなどを売っていて、大勢の人を雇っていました。祖父は三菱長崎造船所で働いていました。私も戦後、この地で暮らしました。」

被爆遺構「一本柱鳥居」は、山王神社(長崎市坂本2丁目)の入口にたつ鳥居。被爆時、爆風により左半分が吹き飛ばされたが、右半分だけの状態で現在も残る。また、山王神社には被爆したクスの木が残っており、一本柱鳥居とともに被爆の実相を伝え続けている。


現在の一本柱鳥居

8月9日

被爆直後の坂本町 提供:長崎原爆資料館

「『“新型爆弾”で家がつぶれた。お母さんが見つからない』という電報を叔母(当時17才)から受け取り、神戸に住んでいた母は、すぐに姉(当時5才)と私(当時2才)を連れてで電車を乗り継ぎ長崎へ向かいました。移動中、幼い私は私はずっと泣いていて、母は途方にくれたそうです。」

叔母の証言によると、一夜明けて祖母の骨を見つけ、死亡を確認したという。Aさん家族のように被爆から数日後、親類を探したり負傷者を助けたりするために大勢の人たちが爆心地近くに入り、残留放射能を浴びた。そうした人を「入市被爆者」と呼び、被爆者健康手帳が交付されている。

戦死した父

時期不明(病院船 摩耶丸にて) 父

「私の父は海運会社の船乗りで、戦時中は海軍に入り、最後は小さな船の機関長として1945年6月に朝鮮半島沖で戦死したそうです。なので私には父の記憶がほとんどありません。父は旅先でいつも母に手紙を出していて、そこには私に会いたいって書かれています。私はそれで父の愛情を今でも感じます。」

父は戦時中、船と共に海軍に徴用されて軍事物資を運んでいたが、船が撃沈されて亡くなった。Aさんは2歳だった。だが、遺族が国から戦死の報せを受けたのは戦争が終わった翌年46年2月だった。

父が母に宛てて書いた手紙。どの手紙も、姉妹を心配する一筆が添えられている。

神戸時代

1937(昭和12)年 雲仙市小浜町 野岳

「父が勤めていた海運会社では、海外にもよく行っていたようで、アルバムには外国の写真も残ってます。給料もよかったみたいで、夫婦旅行の写真がたくさんあります。戦後、寂しさと貧しさの中を必死に生きた母は、戦後も度々父が生きていた神戸時代の話を、神戸弁で話していました。」

神戸時代のことをAさんは幼かったこともあってほとんど覚えていない。父がいて、豊かだった時代の話を母や姉が話すのが嫌だったと語る。だからこそ、これまで母が戸棚にしまった写真をほとんど見てこなかった。

父が旅先で撮影した写真(時期不明)ニューヨーク

浦上への移住

1953(昭和28)年ごろ 自宅前

「戦後2年が経って、祖父が焼け跡に建て直した家に神戸から引っ越しました。6畳と3畳の2間の木造平屋に叔母も入れて4人暮らし。狭かったし、貧しかった。母も働いていたので、子どもの頃の記憶は遊びより家事です。でも周りもそんな風だったので、それが当たり前だと思って生きていました。」

引っ越した当時はお風呂がなくて、公衆浴場を利用したり、夏場は外で行水をして済ませることもあった。たまに自宅にお風呂があるご近所さんから呼ばれて、お風呂を借りることもあったが、それがとても恥ずかしかった。

銭座小学校入学

1949(昭和24)年 長崎市立銭座小学校

「小学校の入学記念写真です。寒いなか草履や裸足の子もいっぱいいました。入学したころの給食はコッペパンと脱脂粉乳。まずくてちっとも好きになれなかった。でも、高学年になるころには校内に給食室ができたんです。チャンポンが初めて出された時は家のより美味しくて、今でもその味が忘れられないです。」

1945年8月、銭座小学校(当時は銭座国民学校)の児童数は、学童疎開などのため37学級・約2300人が18学級・850人まで減っていた。このうち約500人が原爆で亡くなった。木造校舎は全焼し、コンクリート校舎も内部が全焼。1945年10月に他の学校の校舎を借りて再開し、もとの校地に戻ったのは1948年1月だった。

煙突とスケッチ

1949(昭和24)年 長崎市立銭座小学校

「この写真は姉たちが銭座小学校の校舎の屋上で撮ったものです。よく見ると、遠くの方に大学病院の折れた煙突が写っています。この煙突は私たちにとって格好の絵の題材でした。私も子ども会のスケッチ大会で山王神社から見えたこの煙突を描き、表彰されたこともあるんですよ。」

煙突は、長崎医科大学付属病院(現在の長崎大学病院)のもの。爆心地から約0.7キロにあり、煙突は原爆の爆風で折れ曲がった。

海水浴

1949(昭和24)年 鼠島海水浴場

「子どものころ、夏になると海水浴に行くのが楽しみでした。町内の大人たちは子どもたちの面倒をよく見てくれ、みんなで出かけることもありました。ご近所さんも親戚みたいな感覚ですよね。それにしても子どもがたくさんいた時代ですね。」

長崎市内では当時、学校のプールはほとんど整備されておらず、数少ない泳げる機会が海水浴だった。Aさんが遊んだこの鼠島海水浴場はその後、開発と埋め立てで姿を消した。

未亡人の女性

1950(昭和25)年 浦上天主堂前

「祖母の店で働いていた女性が戦後、浦上教会で働いていて、母とよく訪ねました。その女性は原爆で家も子供も失い、夫も戦地に行ったまま戻らず、浦上教会に身を寄せていたそうです。父を失った母は、彼女に自分を重ねていたんだと思います。あの当時はそんな人がたくさんいました。」

「母は戦争で夫を奪われ、原爆で実家を失い、母親も亡くなって頼るところもなくなりました。ですが、母の兄弟たちが戦地から復員してきて、母を精神的に助けてくれました」と、Aさんはお母さんの苦労に思いをはせる。

NHK合唱コンクール

1959(昭和34)年 渋谷のNHK

「高校ではコーラス部に入りました。先輩たちがとっても上手で私が1年の時、東京での全国大会まで進みました。私も一緒に連れてってもらい、とてもラッキーでした。東京には、長崎から急行列車に乗って行きました。東京タワーを見物して、お土産もたくさん買いました。」

Aさんが所属した純心高校コーラス部は1959年、NHK合唱コンクールで全国大会に出場した。その様子は、前年に長崎でも本格的に始まったテレビ放送(当時はモノクロ放送)で取り上げられた。

Aさんはアルバムに「何だかまだ夢の中にいるみたい」と綴った。

成人式

1964(昭和39)年 平和公園 成人式の晴れ着姿

「成人の日には、友達と一緒に晴れ着を着て、高校時代の先生に見せに行ったり、平和公園で記念写真を撮ったりしました。晴れ着は、就職した後に貯金して自分で買いました。思い出の山王神社の公民館で町内の人たちから『おめでとう』と祝ってもらいました。」

Aさんが成人を迎えたこの年、最初の新幹線となる東海道新幹線が東京~新大阪間で開通し、東京ではオリンピックが開かれた。経済復興を果たした日本では、海外旅行が自由化された。

メッセージ

「私は父の顔も声も覚えていません。今は父のところへ旅立った母は、戦争に夫を、原爆に祖母と実家を奪われました。そのなかで私と姉を育て上げるのは孤独で、苦労も多かったと思います。今回の機会を通じて、2人から守られて今の私があるんだと改めて両親の愛情を感じています。若い人たちには家族や財産、なにもかもを奪う戦争と原爆の恐ろしさを伝えたいです。」

スライド教材 「被爆後の長崎の日常 浦上の暮らし」
教材作成:林田 光弘( R E C N A 特任研究員) / 佐々木 亮(ライター)
写真提供:Aさん / 長崎原爆資料館
デザイン:大久保舞花

参考文献・WEBサイト

文献

  • 長崎原爆資料館 編(2006)『長崎原爆戦災誌』第1巻・第2巻・第3巻,第長崎市
    市制百年長崎年表編さん委員会 編(1989)『市制百年長崎年表』長崎市
    布袋厚(2020)『復元!被爆直前の長崎 : 原爆で消えた1945年8月8日の地図』長崎文献社
    長崎市立銭座小学校創立百周年実行委員会(2002)『長崎市立銭座小学校創立100周年記念誌』長崎市立銭座小学校創立百周年実行委員会

Webサイト

  • 「NHK全国学校音楽コンクール 歴代受賞校」NHK,https://www.nhk.or.jp/ncon/archives/successive_hi.html,(参照 2022-07-20)

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